ここいらでMy policyをば。

最近色々と思うところがありまして、、、今日は私の精神性の部分を語ります。
大学時代にこういった話を熱っぽく語っていると、当時東京大学大学院の教授を兼任なさっていた私のゼミの先生が私を何かの宗教家か教祖なのですか?と問いかけられました。
それを思い出すと、私の不変的なものは、臆する事無く自分の精神性みたいなものを熱く語れるところであり、何を差し置いてもまずはアイデンティティを大切にしましょうと育んでくれた両親に1番に感謝しなくてはならない、と。
そして勿論何の宗教にもはまる事無く今まできている、と最初に言っておきます。言うなれば『自分教』といったところでしょうか。(そもそも神棚も仏壇もあり、毎年クリスマスにクリスマスケーキを家族全員で食べる、そんなような家庭環境だったのもあり、私がその気になる、という事はございません。)
※宗教や信仰は各人の自由でしょうから、私がここで論じているのはその良し悪しでは無く、正に私の中の私自身のイデオロギーにおいて。
相性が合わない、苦手な、生理的に受け付けない、人がいるとします。まっ、簡単に言ったら、『心底反吐が出る程自分にとって嫌な奴』と表される類いの人、です。
学生時代の友人関係とかだったら、嫌なら断ち切れば良いだけの話ですが、仕事関係や家庭内では、そうはいきません。
その、嫌な奴をネガティブな感情で捉えなくても良い術を私はおおよそ身に付けています。
私は、『嫌い』という負の感情を持ち、憎んだり、恨んだり、いがみ合ったりしている時間が大変にくだらなく勿体無い、そんな事をしている暇が無い、無駄であると、そういう局面に対峙しそうになるとすかさず呼び起こすようにしています。
私の限られた人生、どうせ同じ時間を過ごすのなら、楽しくhappyな気持ちで過ごした方が良いに決まっています。そのためにこの世に生かされているとも。
揚げ足ばかりとって、その人の居ない所で悪口を言い散らすのを生き甲斐としている、、、私からしたら悪趣味な類いの人間がもしかしたら、いるかもしれないけれど、大概それを聞かされる側は、まぁ普通はいい気しませんよね。。。聞かされる方としても悲しい気持ちになります。
(そもそも根本的に、人にされて嫌な事はすべきではないですし、人を悪く言う人間はろくな人生にならないのでは、と。)
だから私は、不特定多数の方が見てくださるであろうこのブログには、出来るだけ、褒め称えるべき良い事をより多く取り上げていこうと決めました!
たとえそれがブログのためだけであっても、ブログを書く事のために良い事(ネタ)探ししていると、見付けた時、心が浄化されてほっこりとした気分になれる事も分かってきました。
さらには、褒め称えるべき良い事に対して、最上級の適切な表現、ポジティブワードを自分のボキャブラリーから探してくる作業のなんとも幸福感に包まれた時間は、私の心を豊かなものへと導いてくれている気もします。
そして、ネガティブな事ばかりを思って生きていたら、心が腐って心が貧しくなると確信しています。
最後に、嫌な奴をネガティブな感情で捉えなくても良い術とは、①『他人は自分を映す鏡』である事を思い出す。(この現象は、私は自身が小学生の時にすでに悟りました。実際に言葉として存在するというのをある程度大人になってから知ったものです。)今一度、相手に対して持っている自分の感情を見直し、まずは作為的に自分の感情をコントロールする。
それすらも不可能な段階に来ていたら、すでに相手を慮っている段階にはおりません。自分の精神安定上、自己防衛の第二のフェーズに入ります。
②その相手の存在自体を『嫌い』から『無』の存在へ意識的に『昇華』させてあげるというものです。
言わずもがな、もうそこには感情自体存在しなくなるので、相手がどんなに糞野郎でも、なぁーんにも感じないし、こちらとしては、ダメージを食らう事は無くなるのです。そうなったらもう無敵です。
これは本当に、意識的に取り組まなければ決して出来るようにはなりません。
でも信念をしっかり持って過ごしていれば、そのうち、ちょっとずつ自ずと出来るようになってくるはずです。
※一部不適切な表現がありますが、ニュアンスをお伝えするため敢えて用いたものです。